『祈り』は精神的な『人柱(ひとばしら)』?①

 祈りについては既に何度となく、その非有効性について述べてきましたが、実は見過ごすことが出来ない重大な副作用があります。それは、『世界の平和や他者への思いを願いこめること』により、『本来自分自身を守り、幸せにすべきエネルギーを他者のために消費してしまい、結果的に自分自身が非常な苦労を背負ってしまう』ということなのです。いわゆる、精神的な『人柱(ある目的のために犠牲となった人)』になっているのです。このことに気付いている人は、ほとんどいないと思われます。私も当初このようなことは毛頭考えていませんでした。しかし、34年以上の『祈り』の体験からそう考えるが方が辻褄(つじつま)が合うのです。

『祈り』はある種の『犠牲的精神』であり道徳的には推奨されます。しかし、『日々間断なく祈りを続けた場合』、必ず立ち行かなくなります(このことは、今までに歴史的に登場した数々の教祖的な人物が非常な苦労を背負ったことからもお分かりだと思います)。それでも、『祈り』が『世界の平和や他者』のために役立っているのであれば、良いのですが…

私は、そもそも、祈りが『世界の平和や他者へ』効いているのかも怪しいと思っています。なぜならば、祈っていても『何の手ごたえもない』からです(朝晩、あるいは食事の前に祈るレベルではわからないと思います…)。自分自身に手ごたえがないものが、果たして『他者』に効くんでしょうか?

祈りは、単なる儀式ですか?祈っている私って素敵なんでしょうか?この点をあやふやにして『あんな素晴らしい人が推奨しているのだから』という思い込みで祈り始めると必ず最後は後悔します。悲しいですが、これが、私の『祈りに対するファイナルアンサー』です。